Tokyo’s Homeless: The dilemma hidden in plain sight 東京の路上生活者たち:目の前に隠されている矛盾

[ENGLISH]

[日本語訳] 

東京の路上生活者たち:目の前に隠されている矛盾

東京スプリング・ホームレス・パトロールのボランティアは慈善活動を超え、変化を促す

2021年8月10日
サイモン・スコット
政治経済学者や道徳家たちに問う。一人の金持ちを生み出すために、いったい何人の人々が苦悩、過重労働、失意、屈辱、無知蒙昧、圧倒的な不運、極貧状態に追い込まれなければならないか、数えたことがあるのかと。  -- アルメイダ・ガレット(ポルトガルの詩人) 

東京スプリング・ホームレス・パトロール(TSHP)

42歳のダイスケさんにとって、東京の路上で暮らす人々の支援は単なる慈善活動ではない。「自分も7年間ホームレスだったから、彼らの気持ちがわかるんです。当時、年上の仲間たちが、まだ若いんだからやり直せると励ましてくれました。そのお返しがしたいんです」と彼は言う。 

彼が路上で暮らしていた頃から8年以上が経った。この5年ほどは、東京スプリング・ホームレス・パトロールに熱心なボランティアとして参加しており、毎週日曜の夜に新宿駅周辺に住む困窮者たちに食料や生活物資を届けている。 

パトロールのメンバーは毎週少しずつ違うが、大概の場合さまざまな国籍を持つボランティアを中心に構成される。彼らは、焼きそば、おにぎり、サンドウィッチ、缶詰、お菓子、バナナ、電池やタバコなどさまざまな物資を手に、新宿西口の小田急改札前に集合する。

東京スプリングのリーダー、スレイマン・ブルキッチさんはボスニア出身で、かれこれ15年以上東京のホームレスを支援している。ブルキッチさんによると、路上で暮らす人の数はパンデミック以来増えているそうだ。

「配布する食料の量が増えていて、それを実感します。コロナ危機が始まってから、若い人や女性が増えていますね」とブルキッチさんは言う。

新型コロナウイルスの流行が始まったばかりの頃、状況が掴めず何をすべきか判断がつかなかったため、彼らは2週間ほど活動を休止した。

「たった2週間ですが、ずっと気持ちが落ち着きませんでした。うまく説明できませんが、強いて言うならば、恥ずかしいなと。こんなもんなのか僕たちは、という気持ち。一大事が発生したから、みんなを見捨てて安全な場所に逃げるのか。自分の身さえ守ればそれでいいのか? いいわけがない。連帯っていうのはそういうことじゃない。

そう思って、実際にホームレスの人たちに会いに行きました。接触することでお互い感染するリスクが発生するけれど、どうしたらいいと思いますかと尋ねたのです。私たちに戻ってきて欲しいというのが彼らの意見でした。今でもよく覚えているのは、その時話したある女性がとても怒っていたことです。誰も来なくなってしまったから、JR新宿西口近辺に住んでいる人は困っていると。私たちはマスクと手袋をして新宿に戻り、彼らにもマスクを配りました」(ブルキッチさん)

東京スプリングは単なる慈善団体ではなく、左翼思想と反資本主義を掲げ、直接行動を旨とする団体だ。そんな彼らにとって「連帯」は特別な意味を持つ。

「私たちは、困っている人たちの側に立っています。この活動をやっているのは、日本政府も大多数の日本の人たちも無関心だからです。グループのメンバー全員が、変化をもたらすための力となっています」。(ブルキッチさん)

ダイスケさんの場合

ダイスケさんがホームレスになったのは15年ほど前。千葉での仕事を失い、新宿に職を探しに来たのがきっかけだった。会社の寮を出なければならず、アパートを借りるお金もなかったため、インターネットカフェで寝泊りしながら就職活動をしていたという。しかし、住所不定のままでは企業は採用してくれず、やがて資金も尽きて、路上生活を余儀なくされた。

こうした絶望的な状況に陥った時、多くの人は家族に助けを求めるが、ダイスケさんはそうすることができなかった。シングルマザーだった母親は、ダイスケさんが高校生の時に亡くなっている。2人の兄が千葉と北海道にいるはずだが、通信手段がなかったこともあり関係は途絶えていた。

「最初は路上生活者として生きていく術や、生活の知恵など全く持ち合わせていませんでした。夜は眠らず、歌舞伎町を一晩中歩き回って、朝4時過ぎに駅が開くと中に入って荷物の上に座って少しだけ睡眠をとっていました。それが1年くらい続いて、その間は人と話すこともありませんでした」(ダイスケさん)

そんな日々を送るうちに、ダイスケさんは新宿駅周辺のホームレスを定期的に雇っている建設会社のスカウトマンから声をかけられた。日本では、怪しげな建設会社がホームレスを日雇い労働者として使う慣行があり、これらの企業はしばしば暴力団と繋がっている。ホームレスの労働者たちは、誰もやりたがらない仕事を低賃金で請け負わされているが、何の後ろ盾もない彼らへの搾取は見過ごされることが多い。

ダイスケさんは建設の仕事を4年ほど続けた。寮などの経費を差し引いた賃金の相場は、15日間フルに働いて6万円程度だったという。最終的には体力が持たず肉体労働を続けることができなくなった。

収入がなくなりフルタイムの路上生活に戻った彼は、自動販売機に残る小銭で買ったカップラーメンや、ボランティアから貰った食べ物でなんとかしのいだ。飢えることはなかったが、食べるためにコンビニで万引きすることもあり、サンドイッチを盗んで警察に1カ月間留置されたこともあったという。

人生の無意味さに押しつぶされそうだったと、ダイスケさんは当時の心境を振り返る。「自分の存在に意味はあるのか。何のために生きているんだろう?生きる理由って? 死んだほうがマシなのかも。そういうことばかり考えていました」。

やがて、ダイスケさんはボランティアとの交流の中で、新宿区が運営する路上生活者のための相談・支援所を紹介され、その繋がりから精神科医を受診することができた。

「死にたいと思っていた僕をメンタルクリニックに連れて行ってくれました。そして、そこの先生に生活保護を申請するよう勧められたんです」(ダイスケさん) 

生活保護とは、困窮している人を助けるための日本の社会保障制度だ。だが、それを受給するのは簡単ではなく、特に路上生活者の場合は多くの障壁が立ちはだかる。そのひとつが、制度に関する情報が手に入りにくいというものだ。ダイスケさんも、最初は生活保護制度について知らず、知った後も自分は若すぎるので対象外だと思い込んでいたという。

「恥ずかしくて自分の置かれている状況を人に話したくないという人もいます。でも私の場合は、ただ単に知らなかったんです」(ダイスケさん) 

その後、ダイスケさんはホームレスのための宿泊施設に入り半年間過ごした後、個室のあるシェアハウスに移り、現在もそこで暮らしている。

孤立無援の人々

58歳のマツバラさんは、新宿西口の狭い路地の一角でダンボールハウスに住んでいる。彼も日本の生活保護の申請プロセスには問題があると考えている。

「役所は必要以上に細かく情報を求めてくる。例えば子供が10人いたら、役人は一人一人に電話をかけて、親のために何かできないかと聞いて回る。そんなのは誰だって嫌ですよ。恥ずかしくて、ホームレスだって知られたくないからね」(マツバラさん)

ホームレスになってからどのくらいの時間が経ったのか、マツバラさんは思い出せないそうだ。ただ、とても長い間であることは確かで、その間に東京の路上に住む人々の変化を目の当たりにしてきたという。

「リーマンショックの後は、30代、40代のホームレスが増えた。いまはコロナで前より状況が悪化していて、仕事のない人が増えている。お金がない20代の若者も見かけるようになった。そういう人たちは大概、ボランティアが気づかないような所で寝ているから、助けてくれる人に出会えないんだ」(マツバラさん)

活動の詳細と問い合わせ先:

東京スプリング・ホームレス・パトロール(TSHP)
路上生活者に食料・生活必需品を配布するボランティア活動
毎週日曜夜:新宿駅周辺を巡回
毎週水曜夜:上野駅周辺を巡回
月に2、3回:多摩川沿いの河原を巡回

東京スプリング・ホームレス・パトロールは参加者と寄付を募集しております。
詳しくは、代表のブルキッチ・スレイマンまでメールでお問い合わせいただくか、TSHPのフェイスブックページをご覧ください。

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