日本型個人主義のドンデン返し


野本陽吾 

東日本大震災で被災した人たちの、震災直後の秩序だった行動は、当時、世界中で称賛されました。いっぽう、日本政府の災害対応のまずさ、とくに福島原発から世界に拡散していく放射能汚染に関する責任感の薄さは、国際的に強く非難されています。

このように、非常時の日本の一般人の言動が高く評価され、同じ時に日本政府は評価を下げるというのは、実は今回が初めてではありません。

16年前の阪神大震災でも、被災地で略奪や群衆パニックがほとんど起きないことに多くの海外メディアが感嘆する一方、原発災害のような国際問題が起きなかったので今回ほど目立ちはしなかったものの、日本の行政機関の無能さが国外でも批判的に論評されました 。

個人個人としては、世界的に見ても「いい人」が多いらしい日本。そう言われれば私自身も、それを誇る気持ちにならないわけではありません。が、肝心なのは「それで、いま日本人の多くは幸せなのかどうか」です。

ここでは具体的なデータを出す余裕がありませんが、最近10年ほどの間に行われてきた複数の世論調査の結果を見るかぎり、「幸福を実感している」と答える日本人の割合は、他の多くの国と比べて、異様なまでに低い。とくに若い世代が幸福を実感している割合は、どんな「貧しい」と言われる国よりも、ほとんどの場合、ずっと低いのです。

「いい人」が多いが、みんな「幸せ」ではなく、そして政府は誠実でも有能でもない・・・・・・これが日本の姿なんだとして、どうしてこん なことになってしまうのでしょうか。

たった一つの要因だけで説明すればウソになるのを承知の上で、ここでは敢えて「日本人が個人主義でありすぎる」のがその原因だ!と言ってしまいたいと思います。

一昔前までは、「日本人は集団主義」だと言われるのが普通でした。

良くも悪くも、個人的に自己主張することが少ない。そのかわり、旧日本軍やバブル期以前の日本企業のように、集団としては非常に積極的な対外進出を図ることが少なくない。そんな、主に昭和期全体を通しての日本人の行動パターンに着目した表現が「集団主義」でした。

が、ここ数年、「集団主義」という用語もほとんど耳にしなくなりました。強かった大日本帝国が崩壊し、日本企業の終身雇用制も実質的に過去のものとな り、また各地に健在だった「閉鎖的なムラ社会」も好むと好まざるとを問わず機能しなくなった現在、「集団主義」もまた、あっけなく終わってしまったのです。

かわりに、リーマンショック後の2009年頃からよく耳にするようになったのが「無縁社会」という言葉です。個々人が互いに「社会的に孤立」していることが指摘されるようにもなりました。

東日本大震災が起きてからは「絆(きずな)」という、ちょっと前まで読めもしない人のほうが多かったような一文字が強調されるようになっていますが、このこと自体、日本社会で個々人がバラバラになっているという感覚が共有されているからこその現象です。20年前に「絆」なんて標語を持ち回ったら「全体主義だ」とか言われて、もっとイヤがられた はずなのです。

だからといって、日本が特に「個人主義」が強いなどと言えるのか。まだ疑問に感じる方が多いでしょう。

私は、ひとりひとりの人間が自分自身の利益を求める気持ちには、世界のどこの誰であっても変わりがないと考えています。違うのは、「自分とは何か」についての考え方と、「自分」から切り離せないと感じる人間関係の範囲、それだけだと思う。

現在の日本人は、「自分とは何か」についてのストーリーを、ほとんど社会的に保障されていません。

かつて世界のほとんどの社会は、なんらかの宗教的なストーリーを子供に教え込みました。今でも、多くの国の多くのコミュニティで、そのことは続けられています。そこで教えられる内容は全て、外部から見ればインチキな内容が 必ず含まれているのですが、とにもかくにも個々人は、世界と自分との基本的な関係について、まず社会から情報提供されたのです。
また、公教育のシステムが国家的に確立されている社会では、ほとんどの場合、自分が所属するコミュニティ・最終的には国家に対して、何らかの形で「忠誠」を尽くすよう教育されます。これも、必ずしも良いこととは言い切れない多くの問題をはらんでいますが、とにもかくにも個々人は、自分が生きていることの意味を「コミュニティ」とか「国」とかの単位で説明する方法を教えられます。これは言い換えれば、自分が生きていることの言い訳をする方法、「今はダメな自分かもしれないが、こんな自分でも国の役に立つ日がくるかもしれないんだぜ、とにかくその気だけ はあるんだから」とか言って開き直る方法を、教えられることでもあるのです(実際ハリウッド映画では、「ダメ人間」や「犯罪者」が非常事態に直面して社会全体を救う、みたいなストーリーがしょっちゅう出てきます)。

このように、身近な大人たちから宗教的な世界観を、国家からは貢献すべき共同体という舞台を与えられ、最低でも「神」と「国」という二重の「アイデンティティの基盤」を人生の最初に提供されるのが、世界の多数派の人たちなのです。

これに対し、今の日本はどうでしょうか。家庭はもちろん学校でも「自分らしく生きよう」「自分の人生の勝利者になれ」みたいなことばかりが言われがちです。「自分を守り育ててくれている様々なものに感謝しよう」とも言われるようですが 、これも含めて「自分のため」を主語にしてしか教育されない。つまり、自分についてのストーリーを、自分自身で一から組み立てていかなくてはならないのが、今の日本だということです。

このようになったのには、もちろん相応の理由があります。「自分についてのストーリー」を国家権力が一律に供給するかのような体制ができてしまったことで、ある種の全体主義や悲惨な戦争に国民全体が動員された過去の大日本帝国の経験。これを、第二次世界大戦のあと、かなり徹底的に反省したからです(アジア太平洋地域との関係では反省の仕方が不十分だとは私は思いますが、ある面では近代国民国家そのものの枠組を超えるくらいの徹底した反省をしたのも事実です)。私自身も7~8年前まで「まだ過去の反 省が足りない、国家主義の復活を許すな」といったことばかり主張していた人間ですので、そのへんの事情はよくわかります。

もうひとつ、日本では国民の大半が共通に信仰しているような明確な「一神教的な神さま」がいない、という事情もあります。キリスト教とかイスラームとかを熱心に信仰していれば、周囲の人間関係から完全に孤立してしまっても「私には神さまが味方についてくれている」と信じ込むことができる場合があるのですが、そのようにハッキリ味方になってくれるような神さまを持っている人は、江戸時代以降の日本では極めて少数派です。

以上のような理由で、もとより孤独になりやすい日本人は、第二次大戦後、大きく分けて2通りの方法で、自分自身の暫定的ストーリーを確立 するようになりました。一つは、周囲の人間関係に過剰なまでに気を使うことで、周囲の人に「人として認められ」る方法(これを実践する結果が、外からは「集団主義的」と見られがちなのです)。もう一つは、仕事上の能力そのものを「だから自分は生きる価値がある」という自信の根拠にする方法。

この2つの方法のうち、後者の「仕事の能力による自己肯定」が、産業構造の激変と長期化する不況のもとで、今では極度に頼りないものとなりました。結果、ますます「周囲に気を使う」しかなくなっているのが現状です。

ただし、若い世代を中心に「ジモトのコミュニティを自分たちのものにする」という新しい動きが出てきており、これはおそらく非常に有効な方法です。ただし、これも誰もが同じ レベルで実践できる方法とは言い難いのが実情であるように思えます。

この先、とくに新しい方法も見つけ出せない多数派の日本人は、一体どうしたらよいのか。私自身は「あえて、国家を個々人が取り戻す」みたいな方法を考えていますが、これは慎重に条件を限定する必要のある、かなりキケンな方法です。

ここでは、今の日本の個々人が精神面で世界史的にも極めてシビアな状態に置かれていること、アイデンティティ形成が完全に各人まかせにされるなどという経験は世界史上たぶん初の試みであるということを、まず確認するに留めたいと思います。

ただ、一点だけ、私たちが少し誇っていいと思うことを、もう一度言いたい。

1923年の関東大震災では、日本人はパニックに陥って、六千人に及 ぶとも言われる在日「朝鮮」人を虐殺しました。1995年の阪神大地震では、以前から野宿生活を余儀なくされていた生活困窮者が避難所に入ったことを「ホームレスが紛れている」と表現する心無いマスコミ報道が横行しました。今回は、様々な状況の違いがあるとはいえ、少なくとも震災直後は、そのような排他的な言動はほとんど目につきませんでした。そうして、被災者の行動の仕方そのものは、やはり「世界標準」では尊敬に値する、と評価されたのです。

このような被災者の、その後の状況そのものも、実は本当に厳しいものです。震災失業12万人とも言われる、それこそ極限的に厳しい状況が続く被災地ともども、日本から新しい「幸せ」の形を生み出せないだろうか。

まずは問題提起だけで終わら せることを、お許しいただきたいと思います。

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