(マルクス:経済学・哲学草、訳者:長谷川博、光文社、東京、2010年、p241~251)
人間の感覚や情熱が、個人として見た人間のありさまというにとどまらず、人間の本質の(人間の自然の)真に存在論的な肯定であるとすれば、そして、感覚や情熱を現実的なものとして肯定するには、対象が感覚的にあらわれてこなければならないとすれば、以下のことは問題なくいえる。
(一)
感覚や情熱がなにかを肯定する肯定のしかたはけっして同一ではなく、むしろ、肯定のしかたがさまざまな形を取るところに感覚や情熱の独自のありかたや生きかたが示されている。感覚や情熱にたいして対象がどうあるのかによって、感覚や情熱の対象享受のありかたが決まってくる。
(二)
感覚的な肯定が独立に存在する対象を直接に破棄するという形を取る場合(食べる、飲む、対象を加工する、といった場合がそうだ)、破棄することが対象を肯定することだ。
(三)
人間が人間らしい存在であり、その感覚や情熱も人間らしいものであるなら、他人による対象の肯定が同時に自分の享受でもある。
(四)
産業の発達のなかで私有財産が生産を媒介するようになって初めて、人間の情熱の存在論的本質が全体として、また人間らしい形で、あらわれてくる。とすると、人間についての学はそれ自体が人間の実践的な自己活動の産物である。
(五)
私有財産の意味は―それが疎外から解放された場合には―享受の対象としても、活動の対象としても、人間にとって本質的な対象がそこに存在しているということだ。
お金は、なんでも買えるという特性をもち、すべての対象をわがものにできる、という特性をもつのだから、すぐれた所有物という資格をもつ対象である。そこ特性がどこでも通用することがお金の全能性であり、お金は全能の存在として力を揮う。……お金は欲求とその対象を仲介するものであり、人間の生活と生活手段を仲介するものである。しかし、わたしにたいしてわたしの生活を仲介してくれるものは、わたしにたいする他人の存在をもわたしに仲介してくれる。こうしてわたしの前に他の人間があらわれる。
なんてこった。そりゃ、手も、足もシェイクスピアの『アテネのタイモン』にはこうある。
頭も尻も、あんたのものだ。
だが、わたしがいまのいま楽しむすべてが、
わたしのものじゃないとは言えますまい。
わたしが馬六頭分の代金を払えば、
その馬力はわたしのものになる。
駈け出したとなると、二十四本もの脚をもつ
立派な男というわけだ。
ゲーテ『ファウスト』(メフィストフェレスのせりふ)
金貨か。高価な、きらきら輝く、黄金色の金貨か。いや、神々よ。もっとあとには、こんなせりふもある。
わたしは伊達に祈ってるんじゃない。
これだけの金貨があれば、黒を白に、醜を美に、
悪を善に、老いを若さに、卑怯者を勇者に、賤民を貴族に変えられる。
こいつは……司祭さまを祭壇から引きずりおろし、
半病人の枕を引きはがす。
実際、この黄金色の奴隷ときたら、信仰の絆を解いたり結んだり、
呪われたものを祝福したりもする。
癩病やみを愛すべきものにし、泥棒を表彰し、
そやつに地位と、人を跪かせる権威と、元老院なみの勢力をあたえる。
老いぼれの後家のもとに求婚者をつれて行く。
吐き気を催す膿みただれた傷のせいで病院を追い出された女を、
香油をかけて若返らせ、
華やぐ乙女に変えるのもこいつだ。
いまいましい金属め、
お前はどんな人間にも媚びを売り、
人びとをだまくらかす娼婦だ。
お前は愛らしいなりをして王を殺害し、高貴を装って親と子の仲を裂く。シェイクスピアはお金の本質を見事に描写している。かれの言うところを理解するために、まずはゲーテの詩句の解釈から始めよう。
輝く身ながら婚礼の浄らかな床を汚すのだ。
軍神マルスのように勇敢なやつよ。
永遠に花咲く優しい求婚者よ。
お前の黄金色の輝きは、女神ダイアナの浄らかな膝につもる聖なる雪をも解かしてしまう。
お前は、目に見える神だ。
お前は結びつきそうもないものを結びつけ、キスを強要する。
どんなことばでも話し、どんな目的でもなしとげる。
おお、心の試金石よ。
お前の奴隷である人間が反抗したとしたらどうだ。
お前の力はかれらすべてをめちゃめちゃにするだろう。
そして、動物がこの世の支配者となるのだ。
お金によってわたしの手に入れるもの、わたしの支払うもの、お金で買うもの、それがお金の所有者たるわたしそのものだ。お金の力の大きさがわたしのちからの大きさだ。
お金の特性がわたしの―お金の所有者の―特性であり、本来の能力だ。わたしがなんであり、なにができるかは、わたしの個性によって決まることではまったくない。わたしは醜いが、飛び切り美しい女性を買うことができる。とすれば、わたしは醜くない。醜さは相手をたじろがせる力となってあらわれるが、その力がお金によって消滅しているのだから。わたしは―わたしの個性からすると―足が不自由なのだが、お金で二十四本の足を手に入れたのだから、足が不自由ではない。わたしは低列な、不正直な、良心のない、才気のない人間だが、お金が尊敬されるのに見合って、お金の所有者も尊敬される。お金は最高善だから、その所有者も善良だということになるし、その上、お金のおかげでわたしは不誠実になる必要もないから、誠実だと見なされる。わたしには才気がないが、お金にはあらゆる物を差配できる才気があるのだから、その所有者がどうして才気がないなどといえようか。その上、お金があれば才気ゆたかな人びとを買うことができるわけで、才気ゆたかな人間を支配できる者が、相手よりもっと才気ゆたかでないはずがないのだ。人間の心があこがれるすべてのものをお金で自由にできるわたしが、人間の能力のすべてを所有していないはずはない。とすれば、わたしのお金はわたしの無能力のすべてを、その反対物に変えるのではないのか。
お金がわたしをわたしの生活に結びつけ、わたしと社会とを、わたしと自然や人間とを結びつける絆だとしたら、お金はすべての絆の絆ではないのか。それはすべての絆を解いたり結んだりできるのではないか。とすれば、それは一般的な分割手段でもあるのではないか。それは真の結合手段であり、社会の電気化学的な力であるとともに、真の分離貨幣(補助貨幣)でもあるのだ。
シェイクスピアはお金について次の二点をとくに取り上げている。
- それは目に見える神であり、すべての人間的・自然的特性をその反対物に変えるものであり、物を一般的に混同させ転倒させる力である。それは結びつきそうもないものを結びつける。
- それはどこにでも登場する娼婦であり、どこにでも登場する人間と国民の仲介役である。
すべての人間的・自然的性質を混同させ転倒させ、結びつきそうでもないものを結びつけるお金の神聖な力は、お金が、疎外され、外貨され、外へと出てきた人間の類的存在だというその本質から生じる。お金は人類の能力が疎外されたものだ。
わたしが人間としてはおこなえず、したがってわたしのすべての個人的な本来の能力をもってはおこなえないことを、わたしはお金によっておこなうことができる。とすれば、お金は本来の能力の一つ一つを、それがもともとあるのではないものに、その反対物に、変えるといえる。
わたしがある料理を食べたいと思ったり、道を歩いていくだけの元気がなくて駅馬車を使いたいと思うとき、お金があればその料理や駅馬車を調達できる。つまり、お金はイメージとしてあるわたしの望みを変化させるわけだ。思考され、イメージされ、意志された存在を、感覚的で現実的な存在に移しかえ、イメージを生活に、イメージされた存在を現実の存在に移しかえる。こうした媒介としてお金は真なる創造力を発揮する。
需要は、まったくお金をもたない人にも存在するが、その需要はたんにイメージとしてあるにすぎず、わたしにたいしても他の人間にたいしても、なんの作用も及ぼさず、なんの存在感もなく、わたしにとってはあくまで非現実、非対象でしかない。お金にささえられた有効な需要と、わたしの欲求や情熱や望みに支えられた無効な需要とのちがいは、存在と思考のちがい、わたしのうちに存在するただのイメージと、わたしの外に現実の対象として存在するイメージとのちがいだ。
わたしは、旅をするお金をもたないときは、旅の欲求ももたない。つまり、旅をしたいという現実的な実現へと向かう欲求をもたない。学問に向く天賦の才をもっていても、そのためのお金がなければ、天賦の才を―実質的な才を、本当の才を―もっているとはいえない。反対に、実現には学問に向く天賦の才もっていなくとも、意志とお金があれば、実質的な才をもっていることになる。人間のそのものに由来するのでもなく、人間社会そのものに由来するのでもない、外的で一般的な存在としてのお金―イメージを現実となし現実をたんなるイメージとなす、手段ないし能力としてのお金―そのお金は、現実の人間的・自然的な実力をたんに抽象的なイメージに、まったく不完全なものに、せつない妄想に変えてしまうとともに、他方、現実に不完全で妄想にすぎないもの、現実に無力で人間の頭のなかにしか存在しない力を、現実的な実力ないし能力に変えてしまう。以上に述べたことからして、すでにい金は、個性をその反対物に転じたり、個性の特質に矛盾する特質を賦与したりして、個性を転倒させる一般的な力である。
このような転倒する力としてのお金は、個人と対立するようなあらわれかたもするし、自分こそ本質だと主張する社会的な絆などに対立してあらわれることもある。誠実を不誠実に、愛を憎しみに、憎しみを愛に、徳を悪徳に、悪徳を徳に、奴隷を主人に、主人を奴隷に、愚鈍を知性に、知性を愚鈍に転化するのがお金なのだ。
現に存在し動き回りつつ価値を明示するお金は、すべての物を混ぜ合わせ、交換するのだから、すべての物を一般的に混合し交換する力であり、すべての自然的・人間的性質を混合し交換する転倒された世界である。
勇気を買うことのできる人は、自身は臆病であっても、勇気のある人だ。お金は特定の性質や特定の物や人間本来の力と自分とを交換するのではなく、人間的・自然的対象世界の全体と自分とを交換するのだから、お金を所有する人の立場からすれば、あらゆる特性をあらゆる特性と―当の特性に矛盾する特性や対象とも―交換するといえる。それは結びつきそうもないものを結びつける力であり、相矛盾するものにキスを強要する力だ。
人間が人間として存在し、人間と世界との関係が人間的な関係である、という前提に立てば、愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。他人に影響をあたえたいと思えば、実際に生き生きと元気よく他人に働きかける人にならねばならない。人間や自然にたいするあなたの関係の一つ一つが、輪郭のはっきりした、あなたの意志の対象に適合した、あなたの現実的・個人的な生命の発言でなければならない。あなたが愛しても相手が愛さず、あなたの愛が相手の愛を作り出さず、愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にしないのなら、あなたの愛は無力であり、不幸だといわねばならない。
(Karl Marx:Economic and Philosophic Manuscripts of 1844)
The Power of Money
1. They have by no means merely one mode of affirmation, but rather that the distinct character of their existence, of their life, is constituted by the distinct mode of their affirmation. In what manner the object exists for them, is the characteristic mode of their gratification.
2. Wherever the sensuous affirmation is the direct annulment of the object in its independent form (as in eating, drinking, working up of the object, etc.), this is the affirmation of the object.
3. Insofar as man, and hence also his feeling, etc., is human, the affirmation of the object by another is likewise his own gratification.
4. Only through developed industry – i.e., through the medium of private property – does the ontological essence of human passion come into being, in its totality as well as in its humanity; the science of man is therefore itself a product of man’s own practical activity.
5. The meaning of private property – apart from its estrangement – is the existence of essential objects for man, both as objects of enjoyment and as objects of activity.
By possessing the property of buying everything, by possessing the property of appropriating all objects, money is thus the object of eminent possession. The universality of itsproperty is the omnipotence of its being. It is therefore regarded as an omnipotent being. Money is the procurer between man’s need and the object, between his life and his means of life. But that which mediates my life for me, also mediates the existence of other people for me. For me it is the other person.
“What, man! confound it, hands and feet
And head and backside, all are yours!
And what we take while life is sweet,
Is that to be declared not ours?
And head and backside, all are yours!
And what we take while life is sweet,
Is that to be declared not ours?
“Six stallions, say, I can afford,
Is not their strength my property?
I tear along, a sporting lord,
As if their legs belonged to me.”
Is not their strength my property?
I tear along, a sporting lord,
As if their legs belonged to me.”
Goethe: Faust (Mephistopheles)
Shakespeare in Timon of Athens:
“Gold? Yellow, glittering, precious gold?
No, Gods, I am no idle votarist! ...
Thus much of this will make black white, foul fair,
Wrong right, base noble, old young, coward valiant.
... Why, this
Will lug your priests and servants from your sides,
Pluck stout men’s pillows from below their heads:
This yellow slave
Will knit and break religions, bless the accursed;
Make the hoar leprosy adored, place thieves
And give them title, knee and approbation
With senators on the bench: This is it
That makes the wappen’d widow wed again;
She, whom the spital-house and ulcerous sores
Would cast the gorge at, this embalms and spices
To the April day again. Come, damned earth,
Thou common whore of mankind, that put’st odds
Among the rout of nations.”
No, Gods, I am no idle votarist! ...
Thus much of this will make black white, foul fair,
Wrong right, base noble, old young, coward valiant.
... Why, this
Will lug your priests and servants from your sides,
Pluck stout men’s pillows from below their heads:
This yellow slave
Will knit and break religions, bless the accursed;
Make the hoar leprosy adored, place thieves
And give them title, knee and approbation
With senators on the bench: This is it
That makes the wappen’d widow wed again;
She, whom the spital-house and ulcerous sores
Would cast the gorge at, this embalms and spices
To the April day again. Come, damned earth,
Thou common whore of mankind, that put’st odds
Among the rout of nations.”
And also later:
“O thou sweet king-killer, and dear divorce
‘Twixt natural son and sire! thou bright defiler
Of Hymen’s purest bed! thou valiant Mars!
Thou ever young, fresh, loved and delicate wooer
Whose blush doth thaw the consecrated snow
That lies on Dian’s lap! Thou visible God!
That solder’st close impossibilities,
And makest them kiss! That speak’st with every tongue,
||XLII| To every purpose! O thou touch of hearts!
Think, thy slave man rebels, and by thy virtue
Set them into confounding odds, that beasts
May have the world in empire!”
‘Twixt natural son and sire! thou bright defiler
Of Hymen’s purest bed! thou valiant Mars!
Thou ever young, fresh, loved and delicate wooer
Whose blush doth thaw the consecrated snow
That lies on Dian’s lap! Thou visible God!
That solder’st close impossibilities,
And makest them kiss! That speak’st with every tongue,
||XLII| To every purpose! O thou touch of hearts!
Think, thy slave man rebels, and by thy virtue
Set them into confounding odds, that beasts
May have the world in empire!”
Shakespeare excellently depicts the real nature of money. To understand him, let us begin, first of all, by expounding the passage from Goethe.
That which is for me through the medium of money – that for which I can pay (i.e., which money can buy) – that am I myself, the possessor of the money. The extent of the power of money is the extent of my power. Money’s properties are my – the possessor’s – properties and essential powers. Thus, what I am and am capable of is by no means determined by my individuality. I am ugly, but I can buy for myself the most beautiful of women. Therefore I am not ugly, for the effect of ugliness – its deterrent power – is nullified by money. I, according to my individual characteristics, am lame, but money furnishes me with twenty-four feet. Therefore I am not lame. I am bad, dishonest, unscrupulous, stupid; but money is honoured, and hence its possessor. Money is the supreme good, therefore its possessor is good. Money, besides, saves me the trouble of being dishonest: I am therefore presumed honest. I am brainless, but money is the real brain of all things and how then should its possessor be brainless? Besides, he can buy clever people for himself, and is he who has [In the manuscript: ‘is’. – Ed.] power over the clever not more clever than the clever? Do not I, who thanks to money am capable of all that the human heart longs for, possess all human capacities? Does not my money, therefore, transform all my incapacities into their contrary?
1. It is the visible divinity – the transformation of all human and natural properties into their contraries, the universal confounding and distorting of things: impossibilities are soldered together by it.
2. It is the common whore, the common procurer of people and nations.
The distorting and confounding of all human and natural qualities, the fraternisation of impossibilities – the divine power of money – lies in its character as men’s estranged, alienating and self-disposing species-nature. Money is the alienated ability of mankind.
That which I am unable to do as a man, and of which therefore all my individual essential powers are incapable, I am able to do by means of money. Money thus turns each of these powers into something which in itself it is not – turns it, that is, into its contrary.
If I long for a particular dish or want to take the mail-coach because I am not strong enough to go by foot, money fetches me the dish and the mail-coach: that is, it converts my wishes from something in the realm of imagination, translates them from their meditated, imagined or desired existence into their sensuous, actual existence – from imagination to life, from imagined being into real being. In effecting this mediation, [money] is the truly creative power.
No doubt the demand also exists for him who has no money, but his demand is a mere thing of the imagination without effect or existence for me, for a third party, for the [others],||XLIII| and which therefore remains even for me unreal and objectless. The difference between effective demand based on money and ineffective demand based on my need, my passion, my wish, etc., is the difference between being and thinking, between that which exists within me merely as an idea and the idea which exists as a real object outside of me.
If I have no money for travel, I have no need – that is, no real and realisable need – to travel. If I have the vocation for study but no money for it, I have no vocation for study – that is, no effective, no true vocation. On the other hand, if I have really no vocation for study but have the will and the money for it, I have an effective vocation for it. Money as the external, universal medium and faculty (not springing from man as man or from human society as society) for turning an image into reality and reality into a mere image, transforms the real essential powers of man and nature into what are merely abstract notions and therefore imperfections and tormenting chimeras, just as it transforms real imperfections and chimeras– essential powers which are really impotent, which exist only in the imagination of the individual – into real powers and faculties. In the light of this characteristic alone, money is thus the general distorting of individualities which turns them into their opposite and confers contradictory attributes upon their attributes.
Money, then, appears as this distorting power both against the individual and against the bonds of society, etc., which claim to be entities in themselves. It transforms fidelity into infidelity, love into hate, hate into love, virtue into vice, vice into virtue, servant into master, master into servant, idiocy into intelligence, and intelligence into idiocy.
Since money, as the existing and active concept of value, confounds and confuses all things, it is the general confounding and confusing of all things – the world upside-down – the confounding and confusing of all natural and human qualities.
He who can buy bravery is brave, though he be a coward. As money is not exchanged for any one specific quality, for any one specific thing, or for any particular human essential power, but for the entire objective world of man and nature, from the standpoint of its possessor it therefore serves to exchange every quality for every other, even contradictory, quality and object: it is the fraternisation of impossibilities. It makes contradictions embrace.
Assume man to be man and his relationship to the world to be a human one: then you can exchange love only for love, trust for trust, etc. If you want to enjoy art, you must be an artistically cultivated person; if you want to exercise influence over other people, you must be a person with a stimulating and encouraging effect on other people. Every one of your relations to man and to nature must be a specific expression, corresponding to the object of your will, of your real individual life. If you love without evoking love in return – that is, if your loving as loving does not produce reciprocal love; if through a living expression of yourself as a loving person you do not make yourself a beloved one, then your love is impotent – a misfortune.
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