2011年3月13日、日曜日

2011年3月13日、日曜日。
午後11時過ぎの丸ノ内線。
こんな時刻に新宿方面に向かう乗客も少なく、あたしはついさっきまでシェアハウスの同居人達と一緒に詰めていた大きなバックパックを背負ったまま電車に乗り込んだ。
何を持って行けのば分からないから、とりあえずみんなに協力してもらって、1時間で慌てて集めた荷物だ。防寒着、水(砂糖と塩を混ぜるとポカリと同じになって吸収しやすくなる)、保存食、救急箱、ロープ。まるで登山にでも行くのかと聞きたくなるような荷物だけど、おとといの事態を考えれば、あたしのこんな格好を見て戦後最大規模の被災地に行くんじゃないかと予想した人はいただろうか。まさか自分が今夜、大地震と津波が起きてまだ2日しか経っていない仙台に向かうなんて、数時間前まで全く想像していなかった。高円寺でジョンと下手くそに焼けたもんじゃ焼きを食べていただけだったのに。

数ヶ月前、フリーの通訳の仕事を始めたばかりのあたしは、「あの日」の朝まで手帳の空白欄を目の前に少なからず危機感を振り払おうとしていた。
とりあえず何か仕事探さなきゃ、営業しなきゃ。
そう考えていたら、地面が壁が扉が家具が自分が揺れ始めた。

ぐら        ぐ  ら         ぐ    うっ       らっ.

地震の日は渋谷にいた。
運良く友達の家にいたから、あまり怖い思いもせずにすんだ。その夜は近所のバーで帰宅難民の方々とワインにクラッカーとマスターが出してくれた前菜などつまんでL字カウンターに寄り添っていた。店のラジオから流れてくる都内の交通情報、避難区域情報にはさんでアップビートなモータウンに時折耳を傾けながら。
たぶん、あの夜は誰も一人になりたくなかった。

そう、あの夜、
数百キロ東北の方向では何十万人もの人達が冷たい泥水に押しつぶされ、目の前で家族や住む家を流され、ああ自分はここで死ぬんだなと一人ぼっちで悟り、(心の準備も何もできていなかっただろうに。未練もたくさんあっただろうに)
目の前で起こっている恐怖と自然界の狂気に容赦無く投げ飛ばされていた全く同じ頃、
東京の渋谷区ではワインやチーズを片手に
「え?いま田園都市線、再開したみたいだよ」
「おおっ、また揺れてるね〜」
とか無邪気に盛り上がっている人達がいた。

何が起こっているか見当もつかなかった。外は寒かったし、多分今夜は帰れないかもだし、でも心の隅っこで子供の頃のお泊り会のような気分を味わっていたのかもしれない。

夜中過ぎにバーを出たらセンター街はオレンジ色に燃えていた。いつもは音楽ランキングとか商品の宣伝とか流している頭上の大きなテレビ画面は、あたしが今まで聞いたこともなかった町が水と火と闇に飲み込まれる様子を写していた。
友達と二人で呆然とその光景を見つめていたら、横をギャル男とギャル女がきゃぁきゃぁはしゃぎながら走っていった。何がそんなに楽しいんだろう。ってかアンタ達、見上げてごらんよ。アンタ達の国だよ。今ちょっと大変な目にあっている人達がいるんだよ。なんとも思わないの?

なんだかんだ言って、3月11日はフライデーナイトだった。地震だろうが槍だろうが雹だろうが、世の中は変わらず回っていくんだから、踊る人達はクラブに向かうし恋人たちはセックスするし、子供たちはテレビでドラえもんが見れなくてぐずるし、震災の事より、脇のムダ毛処理や、浮気がたたった泥沼三角関係の行く末や、バイクの借金の返済とかの方が実はよっぽどリアルに感じるって事もある。

3月11日、そうやって、みんな生きていた。知らないうちに命を受け継いでいた。地球から、宇宙からしてみればいつもと変わらない一日だった。

とにかく、あたしはその次の日から次々と日本に到着してきた海外特派員達のうちの一部隊に付き添いの通訳として東北入りする事になった。
よって、冒頭の真夜中の出発場面。

以来、春と夏だけで5,6回は被災地に仕事で行ったかと思う。別に自分からすすんで企画したわけでも、現地の人達の生活のために何か大きな役になったわけでもない。センセーショナリズムやお涙ちょうだいを求めて一方的に入ってきた外国メディアの報道に加担しただけだ。彼らはハッキリと、自分達が求められているもの(または求められているもの)を分かっていた。

「東京か仙台のどこかに、市民たちが写真や花束やロウソクなど飾ってある追悼碑のようなものはないか?」(日本人はニューヨーカーとかロンドンっ子とは違うから)

「あそこの人にこの町で一番死者がでた学校はどれか聞いてきて」(適当に車を止めて伺った女性は町の出身であっても、住人ではなかったので答はでなかった。お亡くなりになられた両親のために、実家の廃墟の前で線香を灯していた所を邪魔してしまったにもかかわらず、とても親切だった)

「この子にクラスメートで今回両親とも亡くなった子はいるか聞いてくれ」(いた。記者たちはその名前を聞き出し、ローマ字の綴りを確認し、お悔やみを伝えるかのように繭をしかめ首を振りながら「オー」とつぶやいた)

来て見てすぐ帰る。『パラシュート記者』と業界語で呼ぶらしい彼らには、マスコミのあり方というものを垣間見せてもらった。

「こんなもの、なんの役に立つっていうんだろう」

断っておくが、あたしが関わった全てのジャーナリスト達がこうだったわけではない。中には非常に紳士的で慎重な方もいた。でもやっぱり仕事だからね。いい記事書いて売上出さないと、会社には意味がないから。

一番ひどかったのは実は日本人のメディアプロデューサー。震災半年後、支援をくれた諸外国に感謝のメッセージと復興のPRを贈ろうと、東北を巡って色々な観光地などを取材する外交絡みの仕事にあたしは参加してた。このオヤジ、途中で「そんなやらせな撮影には協力できません」と取材協力を断った大船渡市の役所の人と電話で大ゲンカした。
「やらせとはなんだ、やらせとは!君ぃ、失礼じゃないか!」
「だってやらせじゃないですか。どこが復興しているっていうんですか。復興はどこも始まってないんです。」
「何を言っているんだ。なんて失礼な事を言うんだ君は」(と、隣の部屋から延々ねちねちと筒抜けに聞こえてきたのです)
東京のマスコミ人間、被災者の本音に逆切れ。彼の人間性を飾るメッキが一斉に剥げ落ちた瞬間だった。
しかも彼は実際被災地にはほとんど足も踏み入れていない人間だった。
電話の数日後、大船渡に初めて入った取材班。あたしはその場にいなかったけど、クルーによると「あーこんなにヒドかったのね」と呟いてたらしい。

夏の間はどこでもキズナ、ガンバロウ、オウエン、ココロ。
そんな甘っくさい言葉ばかりちょろちょろ流れていたけど、半年が過ぎた今、それすらも聞こえなくなってきた。東京の人間は、自分も含め、もうすっかり忘れて生きている。

あるセミナーでコスメやサプリメントの紹介をしていた女性は、「ほら、この前地震があったじゃないですか」と切り出して非常食にもなる商品を紹介していた。そのあまりにも軽い言い方から、先週あった余震の話かと思ったら、東日本大震災の話だった。

「この前の地震」

この言葉に、彼女の中でどれだけ東日本大震災が重要度を収めているのかが分かったような気がした。「これも原子力の時にとてもよく売れたんですよ」と、次に紹介されたサプリの名前はとっくに忘れたけれど、あの時あたしが感じた驚愕と軽蔑はまだ忘れられない。

Kittenmouth
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